「東京・下町自転車」 | (第六章:アリバイ工作) | |
銀座和光ビルの時計が20時の時を告げた。由美子はこれを待っていたように、地下鉄銀座線のA3出口の階段を下りていった。この通路には防犯カメラが設置されていて、間違いなく撮影されている筈である。まもなく浅草行きの電車がやってきた。車内は帰宅を急ぐサラリーマンが多かった。由美子は、バッグから取り出した濃いグレーのダウンをこっそり羽織り、ヒールのある靴はスニーカーに履き替えた。そしてニットの帽子を取り出し、肩まで垂らした髪をそっくり帽子のなかに押し込めた。 一瞬、対面に座っている老婦人と目があったが、気にする様子はなかった。最近、電車の中で化粧するのは当たり前、大胆に制服から私服に着替える高校生もいるぐらいだから、由美子の行動を不審に思う人は誰もいなかった。 地下鉄が日本橋に着いた。 由美子は、何事もなかったように電車を降りC1出口を通って地上に出た。日本橋のC1出口は、コレド日本橋に直結していた。「コレド」といえば、日本橋界隈を牛耳る三井不動産の商業施設。2010年にはコレド室町、2014年3月にはコレド室町2・3をオープンさせ、現在は、高島屋と組んで日本橋2丁目界隈の大規模開発を実行中である。丸の内を牛耳る三菱地所と東京駅を挟んだ熾烈な再開発競争が繰り広げられていた。 由美子はここから都営バスで門前仲町に向かおうとしていた。錦糸町行きのバスがタイミングよくやって来た。しかしこれは、緻密に計算されたものだった。バスは、12〜3分後に門前仲町を通過した。由美子は、その二つ先の「富岡一丁目」でバスを降りた。時計は20時28分を少し廻っていた。 目の前の大きな通りは永代通りで、道路を挟んだ反対側には「つけ麺 紫匠乃」(むらさきたくみの)の看板が見えた。最近のつけ麺は、どこも濃厚豚骨魚介スープが主流となって、味に変わりがなくなってきたと元カレが嘆いていたのを思い出した。 気がつけば、後ろは富岡八幡宮の大きな鳥居だった。毎年8月に催(もよお)される江戸三大祭りの深川祭はこの神社のお祭りで、深川に暮らす人々はこの祭りに異様なほど熱狂する。参道の左手には、佐川急便から奉納された神輿を保管する倉庫があった。鳳凰の目には4カラット、胸には7カラットものダイヤがあしらわれているだけでなく、ルビー2,010個、金24kgが使われるなど、平成のバブル経済が生んだ超豪華大神輿である。これは間違いなくルパン三世が、峰不二子と手を組んで来るべきチャンスを狙っている筈である。 富岡八幡宮の境内は薄暗く、人の顔が判別できる状況ではなかった。しかし、本殿の横で待ち合わせていた男の姿は、すぐに分かった。由美子は、「久しぶり!」と男に軽く声を掛けたあと、青酸カリの入ったチョコレート片を勧めた。「お前は最低な男だ!」、由美子は心の中で呟(つぶや)いた。 ちょうど同じ頃、先ほど銀座駅で入場するのに使用したICカードには、東京メトロ半蔵門線錦糸町駅での出場時間が記録され、駅の防犯カメラには由美子と同じ背恰好の女性が映し出されていた。 そして由美子がタクシーを乗り継いで自宅に戻った頃、富岡八幡宮の境内では、救急車のサイレンが激しく鳴り響いていた。 |
(このシリーズは、iPadで楽しめるように設計されています。喫茶店でお茶を飲みながら、ゆるりとした気分でお楽しみください。) 東京下町を探訪する他の記事(「東京・下町自転車」)や「沖縄花だより」、「紀行・探訪記」、「真樹のなかゆくい」へも、是非訪づれてください。 |