「東京・下町自転車」 (第一章:「MARCO」と「ミスターカンソ」)

門前仲町「ミスターカンソ」

第一章:「MARCO」と「ミスターカンソ」

 門前仲町は、人で溢れていた。 門前仲町と云えば深川の中心地、浅草に匹敵する下町の代表格である。大通りの交差点角にはポールが立っていて、防犯カメラが据付られているのが見えた。男は身を隠すように交差点から二本目の路地に入っていった。通りの左手には「居酒屋ふうすけ」、右手には「MARCO」が見えた。

 「MARCO」はスペイン料理の明るい感じのレストラン、熱々のアヒージョを頂きながら飲むワインの味は最高だった。 壁には大きなテレビが掛けられていて常時サッカーの録画映像が流れている。サッカーはオーナーの趣味であるということで、従業員はどちらかというと野球の方が好きらしい。

 スペインと言えばサッカー王国。 レアル・マドリードにはロナウド、FCバルセロナにはメッシが所属していて、日本の野球で言えば巨人対阪神のような存在だろう。 スペインの気になる動きといえば、天才建築家ガウディを生んだカタルーニャ地方の独立運動。今年9月に行われたイギリス スコットランドの住民投票では、55.3対44.7で現状維持派が勝利したが、カタルーニャ地方の場合は8割以上が独立を望んでいると予測されている。

 かたや「ふうすけ」は、極めて人気の居酒屋で、17:00の開店とほぼ同時にカウンター10席ほどの店内は満杯となる。このお店は、向かいにある「MARCO」の席からよく見えて、外の様子はよく知っているが中に入ったことはなかった。

 男はそれらの店に脇目も振らず、通りを真っ直ぐ進んでいった。目指すお店は缶詰バーのチェーン店「ミスターカンソ」。門前仲町での待ち合わせは、いつもこのお店を利用していた。ドアの前には生ビール350円の看板が立てかけられていて、この界隈では最も安い。

 ドアを開け、マスターの「いらっしゃいませ!」と言う挨拶に軽く会釈して奥のカウンターに席を構えた。先客は2人、近くの会社に勤めるサラリーマンの様である。生ビールを注文してマスターに千円札を手渡すと、おつりの650円が返ってきた。 このお店のルールは前金制。男は、もらったつり銭を無造作にテーブルに置いておき、何かを注文する度にそこから支払うのがお洒落なやり方だと思っていた。

 つまみはスペイン産のオリーブにしようと決めた。初めてスペイン旅行をしたときの、観光バスの車窓から見た延々と連なる広大なオリーブ畑の風景を思い出したからだ。 男は、棚からその缶詰を探してきて、マスターに一言「これ!」と言った。 ここがスペインだったなら、「オラ!」と言えば良いのだろうか。そしたら店員が缶詰の値段を言うだろうから、今度はテーブルに置かれたつり銭を指差して、再び「オラ!」と云えば、その分のお金を持っていってくれるだろう。

 「オラ」という言葉は便利な言葉で、スペイン観光中はこの言葉だけで用が足りた。朝晩の挨拶も、買い物をする時も、お礼を言う時も、とにかく「オラ!」と言っていれば現地の人と仲良くなれた。 この時、頭の中では、遥かスペインの透き通った真っ青な空を思い出していた。





(このシリーズは、iPadで楽しめるように設計されています。喫茶店でお茶を飲みながら、ゆるりとした気分でお楽しみください。)
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