中頭方西海道を探る旅 | (後編:安波茶橋から浦添グスク) | |
安波茶橋(あはちゃばし)につきました。 橋は北橋と南橋のふたつから成っていて、周辺の石畳道とともに当時のままに復元されています。橋のたもとには 赤皿ガーがあるはずです。 川沿いを捜してみると大きな蜘蛛が道を遮り通してくれません。ガーの番人ではないだろうと思うのですが、蜘蛛の巣を降り払う勇気も出ず、巣の陰からそっと覗き込むのが精一杯でした。[安波茶橋] さらに進むと浦添中学校の横に出てきます。どうもこの付近には浦添間切番所があった所ようで、あちらこちらに説明の案内板が設置されています。案内板に沿って海道を進むとヒージャーがありました。仲間樋川(ナカマヒージャー)と呼ぶこの沸き水も、地元の貴重な水源であったろうと思います。この樋川も、かつてはコンクリートで覆われていたようですが、2010年に浦添市が改修し、いまでは子供たちの楽しい遊び場になっているようです。[仲間樋川] すこし離れたところには、史跡クバサーヌ御嶽がありました。今でこそ周りは畑で明るい感じですが、当時は鬱蒼とした森の中だったに違いありません。ここは、琉球国由来記(1713年)にも記載されている古くからある御嶽のひとつ、現在発掘調査中とのことで調査結果が待ち遠しく思えます。 横の道をさらに進むと浦添グスクです。浦添グスクは首里城より歴史が古く、初代琉球国王「舜天(しゅんてん)」の居城であったと云われています。ここまで古いと神話の域を出ず、「舜天」は源為朝(みなもとのためとも)の子であったという話まで伝わってきます。ところでこの浦添グスク、薩摩軍の侵攻や第二次世界大戦で徹底的に破壊され、昔の面影は頭の中で想像するしかありません。いまは場内のあちこちで精力的に発掘作業が行われていて、その成果に期待します。 |
仲間の印部土手 浦添ようどれ 馬ヌイ石(浦添グスク) |
グスク入口の手前には「浦添グスク・ようどれ館」があり、出土遺跡や古写真をもとに浦添城の歴史をやさしく説明をしてもらえます。どうも建物周辺は、仲間後原遺跡と名づけられた13世紀から14世紀に掛けての住居跡だったようで、今は埋め戻されて駐車スペースになっていました。[浦添グスク・ようどれ館] ようどれ館の近くには、「仲間の印部土手(しるびどて)」と呼ばれる測量に使われた基準点があり、土手の中央にはハル石が置かれていました。これらは1737年から1750年頃に行われた元文検地のもので、浦添グスクからしてみれば、そんなに古いものではありません。ちなみに筆者の住んでる那覇市小禄にも、この時代のハル石はごろごろ転がっていて、幸運なことに御嶽に祀られているものまで存在します。[小禄のハル石] ところで印部土手は、那覇から高速フェリーで50分程離れた座間味村の阿嘉島でも見たことがあります。それは綺麗な砂浜で有名なニシハマ海水浴場に行く途中の道路脇にあったような記憶があります。その時の写真を探してみたら・・ありました。横の看板の記載によれば、印部土手まで残っているハル石は、思っていた以上に貴重なものだったようです。[阿嘉島の印部土手とハル石] 次に向かうのは「浦添ようどれ」、英祖王が築いたとされる王一族のお墓です。首里の玉陵に匹敵する陵墓で、どうしてこれが世界遺産に成らなかったのか不思議なぐらいです。浦添ようどれは東シナ海を臨む北側の崖下に作られていて、穏やかな夕日に包まれ心静まる素晴らしい場所でありました。 グスク内部に入っていきますが、中はひろい丘になっていて昔の面影はほとんどありません。僅(わず)かに残った石垣さえも、近くの小学校建設のために持って行かれたと云うことで、馬に乗り降りする際の踏み台に使われたとされる「馬ヌイ石」だけが、ぽつんとひとつ残されていました。 |
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(このシリーズは、iPadで楽しめるように設計されています。喫茶店でお茶を飲みながら、ゆるりとした気分でお楽しみください。) ついでに、他の「沖縄花だより」や「紀行・探訪記」、「真樹のなかゆくい」へも、是非訪づれてください。 |