中頭方西海道を探る旅 | (中編:儀保から経塚) | |
「ゆいレール」儀保駅までやってきました。今の時刻は15:00、今日の日没は19:21なので、暗くなるまでは4時間以上残っています。歩いて少し行ったところに、「儀保くびり」という急坂があるということですがどうしても見つかりません。 マンションに通じる真新しいコンクリートの階段を登ってみれば、その先には緩やかに湾曲した下り坂が残っていて、おそらく「儀保くびり」の上り坂部分は、県道241号線の拡張工事で削り取られたのであろうと思います。 さらに歩くと、平良交差点の手前に小さな橋がありました。 当時この橋は、太平橋(たいへいきょう)と呼ばれる石造のアーチ橋だったらしいのですが、沖縄戦で米軍の侵攻を防ぐために日本軍が破壊してしまったということで、当時の面影はもうありません。 平良交差点を過ぎて左に入ると、ようやく昔の路地らしい風景に変わります。ここらは首里大名町という如何にも大名屋敷が並んでいそうな地名ですが、読みは「おおなちょう」。琉球王朝にも大名(でーみょー)と呼ばれる役職があったと云う事をウィキペディアには記載されていますが、この周辺はウージ(さとうきび)畑の広がる野原だったということで、大名屋敷のあった地域ではなさそうです。 大名界隈歴史マップという案内図が掲げられていて、テーラマージ(平良真地)あるいはテーラウマイー(平良馬場)と呼ばれる競馬場跡があると云う事なので寄って見ることにしました。ここでは「側対歩」(そくたいほ)という速歩(はやあし)の美しさを競うンマハラセー(琉球競馬)が盛んにに行われたということで、いまは長さ300mにもおよぶ広い直線道路として残っていました。 |
儀保くびり |
大名界隈 |
テーラウマイー(平良馬場)跡 |
中頭方西海道に戻って、フェーヌビラへの入り口を探します。 「フェー」とは南の事で「ビラ」は坂、そして間の「ヌ」は格助詞「の」が訛(なま)ったもの。すなわちフェーヌビラを直訳すれば、単純に「南の坂」という意味でした。 沖縄言葉(うちなーくとぅば)といえども、文法が一緒なのは助かります。ここがフランスであったなら、南の坂は「vira nu fe'」となっていたところでした。ところで、東が「アガリ」で南は「フェー」と、そこまでは良かったのですが、「イリ」が西で「ニシ」が北であるあたりから混乱が始まります。さらに、西原町(中頭郡)が東海岸にある辺りから、ますます訳の分らない状態になってしまいます。 フェーヌビラを下った先にはニシヌビラ、即ち「北の坂」の上りが続きます。昔はずーと石畳が続いていただろうと想わせる、雰囲気満載の長〜い坂道でした。ニシヌビラに差し掛かる手前には「中頭方西海道」の立派な石の標識があって、この時間は小学生の下校姿をたくさん見掛けます。そう云えば、今日は普段の月曜でした。 坂道を上ってさらに歩くと、 浦添御殿(うらそえうどぅん)への案内板がありました。あまり時間は無いのですが、せっかく来たので寄って見ようとおもいます。立ち寄ってみれば立派な亀甲墓でした。正面のヒンプンは大小の石を組み合わせた見事な相方積み、石工(いしく)の技術が冴え渡っています。[浦添御殿] ここから先は見晴らしのよい道が続きます。しばらく歩くと経塚(きょうづか)に着きました。経塚とは経典を埋めた塚のことで、青々とした松並木の生い茂るこの付近に巣ぐっていた悪い妖怪を退治するために、高野山で修行を積んだ坊さんが石にお経を書いて埋めたのだそうです。 歴史の道案内板の近くには、「いちゃりばちょうでー」(一度会ったら皆兄弟)と彫られた石碑があって、「なぜここに、こんな石碑が?」と考え始めると気になって頭から離れません。[歴史の道案内板] |
フェーヌビラ(南の坂) |
ニシヌビラ(北の坂) |
経塚 |
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(このシリーズは、iPadで楽しめるように設計されています。喫茶店でお茶を飲みながら、ゆるりとした気分でお楽しみください。) ついでに、他の「沖縄花だより」や「紀行・探訪記」、「真樹のなかゆくい」へも、是非訪づれてください。 |